館長ご挨拶
GREETING
国指定史跡「大浦天主堂境内」には、国宝「大浦天主堂」、国指定重要文化財「旧羅典神学校」と長崎県有形文化財「旧長崎大司教館」の建物があります。宗教法人カトリック長崎大司教区では、国宝「大浦天主堂」の価値をより知ってもらうとともに、我国の「西洋との出会い」「禁教期・潜伏期の歴史」、そして、「信徒発見」に至る「日本キリシタン史」に関する資料の収集、保存・展示、調査研究を行うとともに、学ぶ機会を提供し、キリスト教に関する豊かな文化の創造に資することを目的として、今回史跡内の「旧羅典神学校」「旧長崎大司教館」を「大浦天主堂キリシタン博物館」として開設することといたしました。見て、知って、心の自由を感じて下さい。
テーマは「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」
大浦天主堂キリシタン博物館
館長 トマ諸岡 清美
特集記事
FEATURE
- 各時代における布教印刷事業 キリシタン版とプティジャン版 コラム フランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来後の日本では、時代ごとに布教書の出版活動が行われました。今日では禁教による活動停止以前の出版物を「キリシタン版」、再布教時代にパリ外国宣教会によって再開された出版物を「プティジャン版」といい、ともに現在も各分野における貴重な文献資料として用いられています。 初期布教時代における印刷事業は、イエズス会の司祭たちによる教育事業の一環として行われたことと東アジアにおいて西洋印刷技術が用いられた最初の例であったという特徴を持っています。禁教政策によるキリスト教への迫害と弾圧が強まったことで日本国内での布教書出版は1614年以降途絶えることとなり、それから2世紀以上を経た開国後の日本における出版活動はパリ外国宣教会の司祭たちによって再開されました。キリシタン時代の出版物には、イエズス会が原語主義(*1) による布教活動を行っていた影響でラテン語、ポルトガル語やローマ字による日本語口語文が用いられており、一方再布教期に刊行された出版物には、それらに加えて漢語が用いられるようになりました。大浦天主堂の外壁に創建当時から「天主堂」の文字が掲げられていたことは、この時代の布教活動に漢語が導入された一つの事象といえるものです。 今回のコラムでは、各時代における布教印刷事業について、布教方針とキリシタン用語の関連を交えながら述べていきます。 キリシタン版 1590年、天正遣欧使節一行がヨーロッパから持ち帰った日本初の印刷機であるグーテンベルク印刷機(*2)が加津佐のコレジオに導入され、日本人の教理学習とヨーロッパ人宣教師たちの日本語学習を目的とした出版物の印刷が開始されました。その後の迫害によってコレジオ(*3) は加津佐から天草、長崎と移動を重ね、コレジオの移転とともに出版活動拠点も移動しました。イエズス会は初期のごく一時期を除き、ラテン語、ポルトガル語を用いた原語主義による布教を行っていました。そのため、この時代に印刷された刊行物にはラテン語・ポルトガル語・日本語口語文のローマ字表記と、漢字・仮名を用いたものとが混在しています。これらの書物群は「キリシタン版」、あるいは出版地の名称をとって「加津佐版」「天草版」「長崎版」などと呼称されており、50種以上の出版物が刊行されたともいわれますが、幕府による弾圧の中で焼却されるなどしたため、世界中における現存数はごくわずかです。1614年の禁教令後にグーテンベルク印刷機がマカオに移されたことにより、日本国内での印刷事業は途絶えました。 プティジャン版 1865年3月17日に大浦天主堂で浦上地区の潜伏キリシタンの名乗り出に出会い「信徒発見」の当事者として知られるパリ外国宣教会のプティジャン司教 (Bernard Thadée Petitjean)は、250年以上もの間司祭不在という環境下で信仰を維持した日本人信徒に向けて、数多くの出版物を刊行した功績も残しています。プティジャン司教(1866年任命)認可のもと日本で刊行された書籍群は、禁教政策下にあった当時の日本人信徒の教理教育の促進、布教活動に大きく貢献しました。日本での出版ではないもののプティジャン版として認知されている『羅和辞典』と題する対訳辞書は、キリシタン版『羅葡和辞典』を底本としていることから、キリシタン版の再版といえる書物です。ラテン語、ポルトガル語、日本語の対訳辞書『羅葡和辞典』は、イエズス会士と日本の信者の協力によってつくられたといわれています。プティジャン司教は1869年、渡欧の途中マカオで『羅葡和辞典』を入手し、ポルトガル語を省いて日本語に改変を加えた『羅和辞典』を執筆し、布教聖省の認可を得て1870年にローマで出版しました。ここでは『羅和辞典』を一例として紹介しましたが、『羅和辞典』のみならずプティジャン版約70種はキリシタン版に少なからず依拠しており、キリシタン時代と明治時代のカトリックにおける言語的、文化的なつながりや変化を示す重要な意義を有する書物群です。 プティジャン司教の出版活動は、死去の1年前である1883年まで継続されました。 プティジャン司教 漢語の導入 1860年に来日したパリ外国宣教のムニクウ神父(Pierre Mounicou)は、日本の開国以前、香港に滞在し布教活動に従事するかたわら中国語を学習し、さらにその後滞在した琉球王国・那覇で日本語を学んだといわれています。ムニクウ神父は来日後横浜に赴任し、横浜天主堂の建設指揮にあたった他、当地での布教印刷事業にも貢献した人物の一人です。横浜で布教活動をするにあたり、当時の教区長であるジラール神父(Prudence Seraphin-Barthelemy Girard)とムニクウ神父は、初めて教理に接する未信者に向けヨーロッパの原語ではなく漢字による表記がより理解を助けると考えていたことが当時の記録や書簡から伺えます。大浦天主堂にさきがけ1862年に建設された横浜天主堂(聖心聖堂)の正面壁には、やはり「天主堂」の文字が掲げられていました。一方長崎のプティジャン神父(当時)は、潜伏キリシタンたちが先祖から伝えられたラテン語、ポルトガル語由来の言葉を使用していたため、長崎においてはキリシタン時代の伝統ともいえる原語による教理教育が再布教に適しているとの考えを持っていたとされています。プティジャン神父は、漢語を用いた場合にともすると別の教えであると受け取られ、潜伏キリシタンたちの教会への復帰を妨げる要因になるとの懸念を抱いたのだと推察されます。 ムニクウ神父は、中国・四川省の漢籍(中国で著された書籍)の教理書を日本人向けに読み下した『聖教要理問答』を1865年に出版し、長崎のプティジャン神父のもとへも送ったものの、受け取ったプティジャン神父はこの要理書を信徒へ配布せず、箱に仕舞ったままにしておいたといいます。 ムニクウ神父 これまで横浜と長崎の間で起こったこのような意見相違について、プティジャン司教がキリシタン時代の伝統にこだわりを持っていたといわれていた一方、およそ70種を数える一連のプティジャン版の中にはキリシタン用語を重視したとみられるものと、漢籍を翻訳したものとが混在している点は興味深い事実です。このことからは、プティジャン神父が一般信徒への教理教育と神学生や邦人司祭とそれぞれにふさわしい布教方針を区別していた可能性が感じられます。 大浦天主堂の主祭壇にたてられたプティジャン司教の墓碑にはラテン語と漢文が碑文として並記されています。 墓碑にカトリック教会の公的な言語であるラテン語を使用したことは自然なことと思われる一方、その翻訳に漢文を用いた点に注目してみると、当時パリ外国宣教会の司祭たちの間で漢文が公的な言語と認識されていたことを思わせます。 プティジャン司教墓碑 プティジャン版の漢籍翻訳書が神学生や邦人司祭向けに制作されていたとし、さらにこのプティジャン司教の墓碑に刻まれた碑文に漢文が用いられたことを考えあわせたとき、パリ外国宣教会の司祭たちの間に意見の相違があったとしてもそれはあくまで一般信徒向けのものであって、日本のカトリックの未来に漢語を重視した点においては共通した意識が持たれていたと想像させられます。 大浦天主堂を拝観の際には、プティジャン司教の墓碑にも注目してみてください。 ※主祭壇のある内陣への立入はできません。柵の外側からご見学ください。 ※当時の神学校教育では漢籍が活用されており、加えてパリ外国宣教会は1884年に香港に出版基地を設置しているなどの点から、この時代には漢語を用いた教理教育が重視されていたと考えられる。香港に設置されたナザレ出版(Nazareth Press)は19世紀後半から20世紀初頭、東洋言語の書籍の印刷所として極東最大ともされる印刷所だった。Google Arts & Culture :Nazareth Press 補足 キリシタン版からプティジャン版へと、終焉と再開の期間は2世紀以上にわたる長い空白があったようにみえる布教書出版史ですが、プティジャン版『羅和辞典』で再版をみたキリシタン版『羅葡和辞典』は、禁教政策下の日本国内で意外な活用をされていたことがわかっています。1640年に初代宗門改役に任命された井上筑後守がキリシタン弾圧に用いるために所持していたことや、出島商館付のスウェーデン人医師カール・ツンベルク(Carl Peter Thunberg)が1776年の江戸参府の際に日本人通詞が所蔵していることを発見したという記録が残されています。 用語解説 (*1)原語主義 カトリックの教理用語を現地語に翻訳せず、異文化で用いられる言語(すなわち原語)を使用した布教を指しており、この場合ラテン語やポルトガル語を用いた伝道方法を指す。例として「キリシタン」(ポルトガル語の<cristão>)や「オラショ」(ラテン語の<oratio>)など。 (*2) グーテンベルク印刷機 ドイツの金細工師ヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg)によって発明された、金属活字を使った活版印刷術及びその機械。当時の日本では、木版に文章や絵を彫って版を作る凸版印刷が主流であり、ヨーロッパからもたらされた活版印刷術としては最初の例と言われている。天正遣欧使節団の帰国時には、印刷機とともに印刷技術者も同行した。 (*3) コレジオ ポルトガル語で「学林」を意味する<colégio>は、司祭育成のための教育施設を指し、日本においては1581年に府内(豊後)に設置されたのを皮切りに、山口、平戸、生月、長崎、有家、加津佐、河内浦(天草)と移動し、1614年に長崎で閉鎖された。 参考資料 「日葡交渉史」松田毅一西南学院大学図書館報 No.189 蔵書ギャラリー no.29 「プティジャン版『羅日辞書』Lexicon Latino-laponicum」下園知弥キリストと世界 : 東京基督教大学紀要 24 「キリシタン時代最初期におけるキリスト教と仏教の交渉」大和昌平獨協大学教養諸学研究 28(2) 「キリシタン文献研究の史的動向」小島幸枝パリ外国宣教会アーカイブ Pierre Mounicou 2024.03.07
- 創建時大浦天主堂と横浜天主堂 コラム 大浦天主堂(日本二十六聖殉教者聖堂 L’Eglise des Vingt-six Martyrs Japonais )は、日本に現存する最古のカトリック教会です。しかし近代日本において、開国後に建てられた最初の教会堂は、横浜の旧外国人居留地の横浜天主堂(聖心聖堂 L’Eglise du Sacre-Coeur )でした。 パリ外国宣教会のジラール神父(Prudence Seraphin-Barthelemy Girard)は、琉球王国・那覇に滞在し日本語を習得しながら、日本の開国を待っていました。日本教区長に任命されたジラール神父は、駐日フランス総領事ベルクール(Gustave Duchesne de Bellecourt)の通訳兼総領事館付司祭という肩書を持って、1859年9月6日に日本入国を果たしました。江戸に滞在後、横浜に移り、外国人居留地80番(現山下町80番地)に土地を確保し、同宣教会のムニクウ神父(Pierre Mounicou)と共に横浜天主堂の建設に着手しました。天主堂は1861年11月末に竣工し、献堂式が執り行われたのは1862年1月12日でした。 創建当時の横浜天主堂は、正面のポーチにローマの神殿のような列柱が並び、正面の外壁には「天主堂」の3文字が付されていました。この建物が完成すると、たちまち日本人の興味を惹きつけ、大勢の見物人で溢れたと言います。 資料提供:神奈川県立図書館デジタルアーカイブ 居留地外国人のために建設された教会とはいえ、開国後における日本初建立となった記念すべき横浜天主堂は、現存していません。その時代、防火設備不足などの理由から、横浜天主堂付近ではたびたび火災が発生していたと言います。当時、火消しの手段としては破壊消防が主流でした。1870年1月には、司祭館付近より出火した火災時に、天主堂の建物はその多くを失っていたと考えられます。この火災で残ったのは、柱と屋根のみであったそうです。補強工事を含む改築が行われた聖堂は、1906年に旧居留地(山下町)から山手町に移転しました。 横浜天主堂に次いで、およそ3年後、長崎に大浦天主堂が建設されました。 この復元図は、古写真やスケッチ、わずかな記録から作成した、創建時の大浦天主堂です。創建時の床面積は、現存する増改築後の建物に比べ、半分ほどでした。塔頂に十字架が立てられた大小3基の塔が聳え、尖塔アーチ形と呼ばれる洋風の窓、内部にはリブ・ヴォールト天井が採用されていました。ヴォールトというのはヨーロッパ教会建築の基本構造の一つですが、そもそもヨーロッパで構造体に用いられるのは石材でした。開国後間もない日本には、教会はもとより洋風建築物すらほとんどなかった時代です。ましてやヨーロッパとは風土が異なる日本で、限られた建材や技術で完成させなければなりませんでした。創建時大浦天主堂の構造体、外壁、屋根などには、日本古来の部材と技法が用いられました。「大浦天主堂の歴史 大浦天主堂の完成後、やはり横浜と同じく、周辺に暮らす日本人たちは好奇心を持ってこの教会を訪れます。そのような中に、禁教下に絶えたと思われた潜伏キリシタンが紛れ、信仰を告白したことから、大浦天主堂は宗教史における奇跡の場となりました。 日本の開国以来初めて建設された横浜天主堂と、それに次ぐ大浦天主堂の献堂時の姿を見てきました。最後に、建設直後から現在に至るまでの、それぞれの変化に触れておきます。 横浜天主堂は、前述した火災の間接被害の後、4年ほどをかけて煉瓦壁に改装されました。1906年に旧居留地(山下町)より山手町に移転、双頭を持つ堂々とした聖堂が建設されましたが、1923年の関東大震災によって崩壊しています。10年後の1933年、コンクリート造の聖堂が完成して、現在に至ります。 大浦天主堂は1868年頃までに、2基の小尖塔が撤去されていたことが古写真から推察されており、したがって復元図のような姿をしていた期間は、ほんの数年間でした。小規模な改築としては、上記の他、脇祭壇奥に祭具室の増築、雨仕舞の悪さの補修などが行われたとみられています。禁教解除後には信徒増加のため増改築が計画され、1879年に大規模な工事が行われました。その工事では、平面比較図の通り、創建当時から柱などの位置を変更することなく、身廊部を維持したまま全方位に拡張する増改築でした。この時から現在に至るまでは、変化した箇所はほとんどありません。創建時とは異なる外観を持つ大浦天主堂ですが、聖堂の中心となる空間からは、わずかながら当時の様子を感じることができます。 その他の改築や現在までの経緯については「大浦天主堂の歴史 ギャラリー 2024.01.25
- 長崎の元和の大殉教図と日本二十六聖人殉教図 コラム 大浦天主堂の収蔵品の中に、2枚の大型の油絵があります。 ひとつは主祭壇の右側壁上部に掲げられた《日本二十六聖人殉教図》、もうひとつは当博物館に展示中の《長崎の元和の大殉教図》です。 《長崎の元和の大殉教図》は2017年まで大浦天主堂内に掲げられていましたが、堂内の修復・整備を機会に、この絵画の修復も行われ、その後2018年4月に当博物館が開館するにあたり、展示されることとなりました。 19世紀にヨーロッパで制作された大規模な油絵であるこれらの作品は、初代日本司教であるベルナール・プティジャン神父が、19世紀の日本における布教の拠点であった大浦天主堂を飾るために発注したと推測されています。 そのような目的で制作された作品であることから、鑑賞や調査の対象とされる機会がほとんどありませんでした。 本作品の修復作業は、当館が開館する以前の2017年に行われており、本格的な調査は博物館開館後の2018年4月以降に進められました。 また、開館から4年が経った2022年は、《長崎の元和の大殉教図》の主題である元和の大殉教400周年にあたり、当館において元和の大殉教の顕彰事業に取り組み、企画展を開催いたしました。信仰のあかし-キリシタンの試練と栄光 以上の経過により、大浦天主堂内に掲げられていた《長崎の元和の大殉教図》を近い距離から実見することが可能になり、さらに元和の大殉教400周年を迎えるにあたり、関連する展示資料として注目を浴びました。 このコラムでは、《長崎の元和の大殉教図》と、それに関連して《日本二十六聖人殉教図》についてのエピソードをいくつかご紹介いたします。 作品の基本情報 《日本二十六聖人殉教図》 技法:油彩 サイズ:P300号(縦1970mm×横2910mm) 制作年:1869年 画家:セシル・マリー=トーレル(C.Thorel) 《長崎の元和の大殉教図》 技法:油彩 サイズ:P300号 制作年:1870年 画家:セシル・マリー=トーレル(C.Thorel) 以上は、現在明らかになっている、それぞれの絵画についての基本情報です。これらの情報を踏まえて、絵画の注文・制作年・画家について記述していきます。 プティジャン神父は日本で活動した24年のあいだに、3回にわたってヨーロッパを訪れています。当時の書簡やいくつかの文献から、プティジャン神父が、聖堂を教会の保護者である日本二十六聖人の殉教の様子を描いた絵画で飾りたいという考えをもっていたことが窺えます。そして、第1回目の渡欧である1867年末から1868年の滞在中に絵画の依頼、または発注をしたと推測されています。 その元となる、いくつかの記述を引用します。 長崎の教会に飾る二六殉教者の処刑の絵の作成のために、彼は数日を費して画家を求め、・・・日本キリスト教復活史353p フランシスク・マルナス著 司教はこの機会に、二六聖人の殉教図を描く画家を探した。司教はこの絵画を長崎の二六聖殉教者聖堂に掲げようと思ったのである。プティジャン司教 キリシタン復活の父 江口源一編集(Mgr. Petitjean, 1829-1884, et la résurrection Catholique du Japon au XIXe siècle,Jean-Baptiste Chaillet) 長崎の教会の保護者である日本二十六聖人の絵を容易な条件で描いてくれる画家をパリで見つけてくれませんか。もし見つけてくださるなら、私がパリに到着したときに、主題と寸法の取り決めを行うでしょう。私はローマで殉教時の聖人の姿を描いたものをいくつか見ましたが、どれも完全なものではなく、イエズス会、もしくはフランシスコ会の聖人たちや、恐ろしい風刺画のような処刑人の姿しか描かれていません。私には費用をかけずに歴史的で完全な主題を制作する方法があるような気がしています。私がとりわけ望むのは、善なる主が栄光の犠牲のうちに結びつけられたものを、私たちの信徒が取り戻した崇敬において分断しないことです。 1868年2月 パリ外国宣教会宛ての書簡 《日本二十六聖人殉教図》には、画家の署名とともに「1869」の文字が認められることから、この絵の完成は1869年と考えられます。さらに、これらの文献等により、絵の発注は1867年から1868年のヨーロッパ滞在期間中に行われた可能性が高いとみられます。 この第1回目の渡欧の時期、長崎では「浦上四番崩れ」と呼ばれる、大規模なキリシタン捕縛・迫害事件が起こっていました。「浦上四番崩れ」に至るまでには1865年3月17日の信徒発見が大いにかかわっており、プティジャン神父は信徒発見以降の教会と信徒との交わりが、迫害を招く要因になったのではないかとの不安を抱いていたと想像することができます。このときの渡欧の目的は、ローマ教皇庁に「浦上四番崩れ」に関する日本の事情を説明するためでした。 プティジャン神父はそのような困難と苦境の中で、 教会の保護者である日本二十六聖人の殉教図を聖堂に掲げたいと考えたのかもしれません。 現在、これら2枚の作品は同画家によるものであることが明らかとなっていますが、作品に関する文書等の文字情報はほとんど残されていないため、長い間画家や制作時期などに関しては不明な点が多くありました。その理由は、2枚の油絵が教会を飾る目的で依頼・制作され、完成後はそれぞれ聖堂内部の側壁の高部に掲げられていたためでした。《日本二十六聖人殉教図》には「C.Thorel 1869」のサインがあり、過去の文献等ではイタリア・フィレンツェの女流画家による作品であることが伝えられてきました。 また、《長崎の元和の大殉教図》については、画面に「1870」という文字は確認できるものの、画家の署名が不明瞭であるために、作者不詳とする資料も存在しています。 《長崎の元和の大殉教図》修復作業時の画面洗浄、赤外線照射及び色相・彩度の調整により、本作品にも《日本二十六聖人殉教図》と同じ「C.Thorel」の文字が確認でき、これにより2枚の絵の画家の同定に至りました。 その後の調査研究の過程において、「C.Thorel」はセシル・マリー=トーレルという画家であるとの指摘を受け、さらにトーレルは(女性画家であるが)フランス人であることも明らかになりました。これまでの情報のうち、イタリア・フィレンツェの画家という情報は誤って伝えられていたものと考えられます。 2017年から2018年にかけて《長崎の元和の大殉教図》の修復・調査が行われたこと、さらに2022年の元和の大殉教400周年顕彰事業として当館で実施した調査・研究に加え多方面からの教示を得られたことで、これまで不明だった点を明らかにすることができました。 《日本二十六聖人殉教図》及び《長崎の元和の大殉教図》の2枚の油絵は、対をなして大浦天主堂と長崎、それから日本のカトリック教会の信仰を150年にわたって補助してきた、重要な存在といえます。 大浦天主堂が収蔵するこの二つの作品の情報をより多くの方に知っていただくとともに、多方面からの研究調査等が、 殉教者の記念とともに継続されることを期待しています。 元和の大殉教 400周年 関連情報(カトリック中央協議会ホームページ)「元和の大殉教」400周年記念祭大浦天主堂キリシタン博物館蔵「元和の殉教図」 2023.12.30
- 日本二十六聖人の殉教地探索 コラム 大浦天主堂は、正式名称を『日本二十六聖殉教者聖堂』といいます。私たちが普段呼称している『大浦天主堂』というのは、地域名である「大浦」と、創建当時に教会を指す言葉として用いられた「天主堂」を合わせた、いわば通称です。 カトリック教会では、教会を建て、祝別を受ける際に、教会の保護者を定める慣習があります。大浦天主堂は1597年2月5日に長崎・西坂で処刑された日本二十六聖人を保護者とし、『日本二十六聖殉教者聖堂』と名づけられました。 大浦天主堂が創建された当時、日本二十六聖人が殉教した場所の特定はできていませんでした。来日後、しばらく横浜に滞在したフューレ神父は、1863年1月22日に長崎に来着しました。彼は、先に到着していたフランス領事のレオン・デュリー(Léon Dury:1822-1891)が、長崎奉行所より臨時領事館として与えられた寺院(本籠町大徳寺)を仮住まいとし、教会建設地を探すことから始めました。フューレ神父は外国人居留地に隣接する現在の土地を手に入れ、その整地をし、まずは司祭館の建設に着手します。8月に入り、プティジャン神父が長崎に来着しました。フューレ神父は教会の図面と建設予定地をプティジャン神父に示し、これから建設する聖堂は、1862年にピウス9世によって列聖された、二十六人の殉教者たちに捧げられる教会であり『日本二十六聖殉教者教会』と命名する考えであることを告げました。 聖堂建設に心を向ける二人が残念に思うことは、殉教のあった場所に教会を建てることができないこと、そしてその「殉教の丘」の具体的な場所が判然としていないことでした。禁教時代、徳川幕府によってキリシタンに関する痕跡はことごとく消され、その後は時間の流れと共に風化し、荒廃してしまっていたため、日本国内には手掛かりになるようなものがなかったのでした。 長崎に来着して以来、プティジャン神父は聖堂建設事業と並行して、海外の諸資料をもとに、熱心に殉教地探索を続けていました。プティジャン神父は、1863年9月20日付のジラール教区長宛の書簡で、見当をつけた場所に関する報告をしています。プティジャン神父は自分が思う見当地と、フューレ神父の意見は食い違っていること、あるいは自分の意見が間違っているのかもしれないと記述しながらも、10月14日付けの同教区長宛の手紙では、26人の処刑地を確信したと書いています。さらに、同年10月28日付のスルピス会の司祭宛の書簡にも殉教地について触れた記述があります。 プティジャン神父の記述を引用します。 この丘、1597年の聖殉教者の十字架刑と死去との舞台となり、後ではしばしば私等の兄弟の血に潤されたこの丘は、長崎市の北方に位しています。その側面と麓には、丘と市との間に、丘の東、南、西に向かって奉行役所(立山役所)、仏寺、墓地があります。同じ方向で、二十六本の十字架の建てられた台地のすぐ傍に、葦や竹を植えた堀の跡が見えます。丁度十字架を植えたであろう所に大根や芋や、三本の大きな杉樹があります。日本人は唯今この丘を「立山」と呼んでいます。尊敬すべき教区長様(註:横浜のジラール神父宛)、1863年10月14日プチジャン司教書簡集 前編(浦川和三郎訳) 然しシャルルヴォアとパジェスのおかげで、昨年の精霊降臨に列聖せられた聖殉教者(二十六聖殉教者)が十字架にかけられ、貴い御最期を遂げられし舞台となった丘の位置を、私は今月初旬ごろに確認しえたと信じています。十七世紀の切支丹等が聖山の名の下に尊敬し、彼らの大多数がその鮮血に潤したこの丘は、長崎市の北側に位置しています。今日の日本人には「立山」の名を以て知られているのです。どうぞ私が聖山を突きとめるのに助けとなったテキストを御目にかけるのを御許し下さい。尊敬すべき神父殿(註:スルピス会司祭宛)、長崎発1863年10月28日 プチジャン司教書簡集 前編(浦川和三郎訳) プティジャン神父は、その当時ヨーロッパでよく読まれていたとされる、シャルルボア(Pierre François Xavier de Charlevoix 1682-1761)による「日本史(Histoire du Japon)」、及びパジェス(Léon Pagès 1814-1886)による「日本二十六聖人殉教史(HISTOIRE des vingt-six MARTYRS JAPONAIS)」の2冊 を参考資料に用いたようです。 また、探索のため「立山」周辺を歩き、付近の住民などに質問をして回ったという記録もあります。 新鐫 長崎之図 (キリシタン博物館蔵) 因みに、プティジャン神父が言う「立山」とは山の名ではなく、その付近一帯の地域名であり、プティジャン神父が指しているのは「茶臼山」あるいは「女風頭」と呼ばれる場所です。 これらの書簡で、プティジャン神父は殉教の丘を「立山(茶臼山)」とし、そう呼んでいますが、それについて、キリシタン史研究家であった浦川和三郎司教は、シャルルヴォアとパジェスに加え、クラッセ(Jean Crasset 1618-1692 )やフロイス(Luís Fróis 1532-1597)の記録をもとに、いくつかの指摘をしています。1915年に出版された『日本に於ける公教会の復活 前篇』の中で、浦川和三郎司教は、殉教地は海岸のそばであること、一旦立てた26本の十字架を、当初処刑地とされていた場所から移されたこと、茶臼山に至る道は峻嶮で、その十字架の移動が(不可能ではないにしろ)並大抵ではないことを大きな理由とし、その他いくつかの考察を加え、次のような論考を示しました。殉教地は茶臼山よりも下手であり、首塚(当時の一般処刑地)からそう距離がなく、大村街道の一方であり、海に突出している場所である。この論考をもって、次第に殉教地特定に向かって動き始める一方、そこに至る前に第二次世界大戦に突入し、世の中の騒動と共に殉教地特定作業は中断してしまいます。 戦後になって、キリシタン史研究はさらに進み、様々な論証が出されました。現在の西坂の丘が殉教地に認定されたのは、1947年7月21日です。これは、キリシタン史研究家・長崎県戦災復興委員会から構成される文化厚生専門委員による結論でした。その後、この西坂の殉教地を公園化する計画が立てられ、1949年5月のザビエル渡来400年祭にあたり、殉教地を中心に一帯を整理し「西坂公園」となりました。さらに26人の列聖から100年目にあたる1962年には、記念館及び記念聖堂(聖フィリッポ教会)、記念碑の建立が実現しました。 日本二十六聖人殉教地である西坂の丘には、1949年5月29日に聖フランシスコ・ザビエル渡来400年記念祭にさきがけ、27日に昭和天皇がご巡幸で訪れています。また、1982年には聖ヨハネ・パウロ二世が、そして2019年11月には現教皇フランシスコと、二度にわたってローマ教皇が訪れた場所でもあります。 宗教的な巡礼地であるのみならず、歴史を知るうえでも重要な場所として、長崎をご訪問の際には大浦天主堂と合わせて足を運んでいただくことをおすすめします。 ※引用部の漢字・かな使いは読みやすいように一部変更しています。 2023.11.16