館長ご挨拶
GREETING
国指定史跡「大浦天主堂境内」には、国宝「大浦天主堂」、国指定重要文化財「旧羅典神学校」と長崎県有形文化財「旧長崎大司教館」の建物があります。宗教法人カトリック長崎大司教区では、国宝「大浦天主堂」の価値をより知ってもらうとともに、我国の「西洋との出会い」「禁教期・潜伏期の歴史」、そして、「信徒発見」に至る「日本キリシタン史」に関する資料の収集、保存・展示、調査研究を行うとともに、学ぶ機会を提供し、キリスト教に関する豊かな文化の創造に資することを目的として、今回史跡内の「旧羅典神学校」「旧長崎大司教館」を「大浦天主堂キリシタン博物館」として開設することといたしました。見て、知って、心の自由を感じて下さい。
テーマは「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」
大浦天主堂キリシタン博物館
館長 トマ諸岡 清美
特集記事
FEATURE
- 日本二十六聖人の殉教地探索 コラム 大浦天主堂は、正式名称を『日本二十六聖殉教者聖堂』といいます。 私たちが普段呼称している『大浦天主堂』というのは、地域名である「大浦」と、創建当時の教会に用いられた「天主堂」を合わせた、いわば通称です。 カトリック教会では、教会を建て、祝別を受ける際に、教会の保護者を定める慣習があります。大浦天主堂は1597年2月5日に長崎・西坂で処刑された日本二十六聖人を保護者とし、『日本二十六聖殉教者聖堂』と名づけられました。 大浦天主堂が創建された当時、日本二十六聖人が殉教した場所の特定はできていませんでした。 来日後、しばらく横浜に滞在したフューレ神父は、1863年1月22日に長崎に来着しました。彼は、先に到着していたフランス領事のレオン・デュリー(Léon Dury:1822-1891)が、長崎奉行所より臨時領事館として与えられた寺院(本籠町大徳寺)を仮住まいとし、教会建設地を探すことから始めました。フューレ神父は外国人居留地に隣接する現在の土地を手に入れ、その整地をし、まずは司祭館の建設に着手します。 8月に入り、プティジャン神父が長崎に来着しました。フューレ神父は教会の図面と建設予定地をプティジャン神父に示し、これから建設する聖堂は、1862年にピウス9世によって列聖された、二十六人の殉教者たちに捧げられる教会であり『日本二十六聖殉教者教会』と命名する考えであることを告げました。 聖堂建設に心を向ける二人が残念に思うことは、殉教のあった場所に教会を建てることができないこと、そしてその「殉教の丘」の具体的な場所が判然としていないことでした。 禁教時代、徳川幕府によってキリシタンに関する痕跡はことごとく消され、その後は時間の流れと共に風化し、荒廃してしまっていたため、日本国内には手掛かりになるようなものがなかったのでした。 長崎に来着して以来、プティジャン神父は聖堂建設事業と並行して、海外の諸資料をもとに、熱心に殉教地探索を続けていました。 プティジャン神父は、1863年9月20日付のジラール教区長宛の書簡で、見当をつけた場所に関する報告をしています。プティジャン神父は自分が思う見当地と、フューレ神父の意見は食い違っていること、あるいは自分の意見が間違っているのかもしれないと記述しながらも、10月14日付けの同教区長宛の手紙では、26人の処刑地を確信したと書いています。 さらに、同年10月28日付のスルピス会の司祭宛の書簡にも殉教地について触れた記述があります。 プティジャン神父の記述を引用します。 この丘、1597年の聖殉教者の十字架刑と死去との舞台となり、後ではしばしば私等の兄弟の血に潤されたこの丘は、長崎市の北方に位しています。その側面と麓には、丘と市との間に、丘の東、南、西に向かって奉行役所(立山役所)、仏寺、墓地があります。同じ方向で、二十六本の十字架の建てられた台地のすぐ傍に、葦や竹を植えた堀の跡が見えます。丁度十字架を植えたであろう所に大根や芋や、三本の大きな杉樹があります。日本人は唯今この丘を「立山」と呼んでいます。尊敬すべき教区長様(註:横浜のジラール神父宛)、1863年10月14日プチジャン司教書簡集 前編(浦川和三郎訳) 然しシャルルヴォアとパジェスのおかげで、昨年の精霊降臨に列聖せられた聖殉教者(二十六聖殉教者)が十字架にかけられ、貴い御最期を遂げられし舞台となった丘の位置を、私は今月初旬ごろに確認しえたと信じています。十七世紀の切支丹等が聖山の名の下に尊敬し、彼らの大多数がその鮮血に潤したこの丘は、長崎市の北側に位置しています。今日の日本人には「立山」の名を以て知られているのです。どうぞ私が聖山を突きとめるのに助けとなったテキストを御目にかけるのを御許し下さい。尊敬すべき神父殿(註:スルピス会司祭宛)、長崎発1863年10月28日 プチジャン司教書簡集 前編(浦川和三郎訳) プティジャン神父が参考にした資料は、その当時ヨーロッパでよく読まれていたとされる、シャルルボア(Pierre François Xavier de Charlevoix 1682-1761)による「日本史(Histoire du Japon)」、及びパジェス(Léon Pagès 1814-1886)による「日本二十六聖人殉教史(HISTOIRE des vingt-six MARTYRS JAPONAIS)」の2冊だったようです。 また、探索のため「立山」周辺を歩き、付近の住民などにも質問して回ったという記録もあります。 新鐫 長崎之図 (キリシタン博物館蔵) 因みに、プティジャン神父が言う「立山」とは山の名ではなく、その付近一帯の地域名であり、プティジャン神父が指しているのは「茶臼山」あるいは「女風頭」と呼ばれる場所です。 これらの書簡で、プティジャン神父は殉教の丘を「立山(茶臼山)」とし、そう呼んでいますが、それについて、キリシタン史研究家であった浦川和三郎司教は、シャルルヴォアとパジェスに加え、クラッセ(Jean Crasset 1618-1692 )やフロイス(Luís Fróis 1532-1597)の記録をもとに、いくつかの指摘をしています。 1915年に出版された『日本に於ける公教会の復活 前篇』の中で、浦川和三郎司教は、殉教地は海岸のそばであること、一旦立てた26本の十字架を、当初処刑地とされていた場所から移されたこと、茶臼山に至る道は峻嶮で、その十字架の移動が(不可能ではないにしろ)並大抵ではないことを大きな理由とし、その他いくつかの考察を加え、次のような論考を示しました。 殉教地は茶臼山よりも下手であり、首塚(当時の一般処刑地)からそう距離がなく、大村街道の一方であり、海に突出している場所である。 この論考をもって、次第に殉教地特定に向かって動き始める一方、そこに至る前に第二次世界大戦に突入し、世の中の騒動と共に殉教地特定作業は中断してしまいます。 戦後になって、キリシタン史研究はさらに進み、様々な論証が出されました。 現在の西坂の丘が殉教地に認定されたのは、1947年7月21日です。これは、キリシタン史研究家・長崎県戦災復興委員会から構成される文化厚生専門委員による結論でした。 その後、この西坂の殉教地を公園化する計画が立てられ、1949年5月のザビエル渡来400年祭にあたり、殉教地を中心に一帯を整理し「西坂公園」となりました。 さらに26人の列聖から100年目にあたる1962年には、記念館及び記念聖堂(聖フィリッポ教会)、記念碑の建立が実現しました。 日本二十六聖人殉教地である西坂の丘には、1949年5月29日に聖フランシスコ・ザビエル渡来400年記念祭にさきがけ、27日に昭和天皇がご巡幸で訪れています。 また、1982年には聖ヨハネ・パウロ二世が、そして2019年11月には現教皇フランシスコと、二度にわたってローマ教皇が訪れた場所でもあります。 宗教的な巡礼地であるのみならず、歴史を知るうえでも重要な場所として、長崎をご訪問の際には大浦天主堂と合わせて足を運んでいただくことをおすすめします。 ※引用部の漢字・かな使いは読みやすいように一部変更しています。 2023.11.16
- 創建時大浦天主堂とフューレ神父 コラム この復元図は、古写真やスケッチ、わずかな記録から作成した、創建時の大浦天主堂(日本二十六聖殉教者聖堂:L'Eglise des Vingt-six Martyrs Japonais)です。 創建時の大浦天主堂の床面積は、現存する聖堂に比べ、半分ほどでした。 基本設計者はフューレ神父とプティジャン神父で、設計を元に建設を請け負ったのは、日本人棟梁・大工たちでした。その経緯は「大浦天主堂の歴史」で触れたとおりです。 塔頂に十字架が立てられた大小3基の塔が聳え、尖塔アーチ形と呼ばれる洋風の窓、内部にはリブ・ヴォールト天井が採用されていました。 ヴォールトというのはヨーロッパ教会建築の基本構造の一つですが、そもそもヨーロッパで構造体に用いられるのは石材でした。 その当時の日本には、洋風建築物に関する技術や知識はまだ伝わっていなかったため、大浦天主堂はわが国における教会建築史上初の施工例であると考えられます。 1868年頃までに2基の小尖塔が撤去されていたことが古写真から推察されており、したがって復元図のような姿をしていた期間はほんの数年間でした。 禁教解除後、信徒の増加によって教会の増改築が計画され、1879年に大規模な工事が行われました。 この時の工事では、平面比較図の通り、創建当時から柱などの位置を変更することなく、身廊部を維持したまま全方位に拡張する増改築でした。 この時から現在に至るまでは、変化したところはほとんどありません。 創建時とは異なる外観を持つ大浦天主堂ですが、聖堂の中心となる空間からは、わずかながら当時の様子を感じることができます。 その他の改築や現在までの経緯については「大浦天主堂の歴史 パリ外国宣教会に入会後、1855年に琉球王国に到着し、日本語を習得しながら日本への入国の機会を待ちますが、40歳に近いフューレ神父は語学習得に苦労をしたそうです。 日本入国は1862年、横浜を経て、長崎への赴任は1863年1月のことでした。 創建時大浦天主堂の設計は、フューレ神父とプティジャン神父とされており、疑うところではありませんが、フューレ神父の長崎赴任が半年ほど早かったこと、また数学を得意としたフューレ神父が設計部分の多くを請け負った可能性は否定できません。 大浦天主堂の着工後、フューレ神父は一時帰国を願い出て、1年間の休暇を取得しました。琉球王国での10年という長い足止めと、開国間もない日本国内での宣教の困難さなどから、心労が重なっていたことが理由だったようです。1866年に再度長崎に赴任しますが、宣教が思うように実を結ばないことなどから、1869年にフランスに戻り、その後パリ外国宣教会を退会しました。 帰国後は教区司祭として、いくつかの小教区で奉職した後、1900年に帰天しました。 長崎では、信徒発見の瞬間に立ち会えず、宣教への困難に失意を覚え、帰国して宣教会を退会してしまったフューレ神父ですが、長い琉球王国での滞在中には工芸品の収集活動などを行っていたそうです。工芸収集品の送り先は、かつて教壇に立ったスタニラス神学校や、教会建設事業などへの寄附者宛てだったと言われ、異国の工芸品を送ることで、日本への関心を持ってもらうきっかけになると考えてのことだったようです。 また、得意分野である物理科学だけでなく、植物や鉱物にも関心が高かったことから、琉球王国での気象観測結果、植物などの記録やサンプルをとり、それらをフランスに報告をしていた記録が残っています。 長崎の聖堂が完成し、かねてより希望した『日本二十六聖殉教者教会』と名付け、海外宣教活動への熱意は失いながらも、自身にできることとして故郷の教区のための奉職を願い、それを続けたフューレ神父。 長崎の歴史、カトリック教会史において多大な貢献をした一人として、記憶に留めたい人物です。 2023.09.15
- 第1期 事業成果 事業の取組み *現在、コロナ感染拡大の影響を受け、第2期以降は一旦中止。再開は未定。 事業結果報告書 元喜載・杉山恵助・佐々木淑美(東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センター) 「《最後の審判》本格解体修理報告書 杉山恵助(東北芸術工科大学准教授) 「初期ド・ロ版画表装の独自性 内島美奈子(大浦天主堂キリシタン博物館研究課長・学芸員)・杉山恵助 「ド・ロ版画印刷年代考 島由季(大浦天主堂キリシタン博物館学芸員) 「キリシタンの死後の世界 修復記念展覧会 >> 修復記念講演会 >> 調査研究・修復 修復資料 R-d-32《最後の審判》 2023.09.11
- ド・ロ版画 [最後の審判] コレクション ド・ロ版画の5種類の教理図は、死にまつわるキリスト教の教えを視覚的に説明するものです。《最後の審判》では、イエス・キリストが世界の終わりに天から再び降り立ち、天国へ迎えられるべき人と地獄で永遠に苦しむ人とに振り分ける審判を行う様子を表しています。本資料は昭和初期にいちど修復が行われており、その古巣(本紙を取り除いた元々の表装)が残されています(図右)。 2020年から2021年にかけて2度目の修復が行われました。 2021.11.23