館長ご挨拶
GREETING
国指定史跡「大浦天主堂境内」には、国宝「大浦天主堂」、国指定重要文化財「旧羅典神学校」と長崎県有形文化財「旧長崎大司教館」の建物があります。宗教法人カトリック長崎大司教区では、国宝「大浦天主堂」の価値をより知ってもらうとともに、我国の「西洋との出会い」「禁教期・潜伏期の歴史」、そして、「信徒発見」に至る「日本キリシタン史」に関する資料の収集、保存・展示、調査研究を行うとともに、学ぶ機会を提供し、キリスト教に関する豊かな文化の創造に資することを目的として、今回史跡内の「旧羅典神学校」「旧長崎大司教館」を「大浦天主堂キリシタン博物館」として開設することといたしました。見て、知って、心の自由を感じて下さい。
テーマは「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」
大浦天主堂キリシタン博物館
館長 トマ諸岡 清美
特集記事
FEATURE
- 創建時大浦天主堂とフューレ神父 コラム この復元図は、古写真やスケッチ、わずかな記録から作成した、創建時の大浦天主堂(日本二十六聖殉教者聖堂:L'Eglise des Vingt-six Martyrs Japonais)です。 創建時の大浦天主堂の床面積は、現存する聖堂に比べ、半分ほどでした。 基本設計者はフューレ神父とプティジャン神父で、設計を元に建設を請け負ったのは、日本人棟梁・大工たちでした。その経緯は「大浦天主堂の歴史」で触れたとおりです。 塔頂に十字架が立てられた大小3基の塔が聳え、尖塔アーチ形と呼ばれる洋風の窓、内部にはリブ・ヴォールト天井が採用されていました。 ヴォールトというのはヨーロッパ教会建築の基本構造の一つですが、そもそもヨーロッパで構造体に用いられるのは石材でした。 その当時の日本には、洋風建築物に関する技術や知識はまだ伝わっていなかったため、大浦天主堂はわが国における教会建築史上初の施工例であると考えられます。 1868年頃までに2基の小尖塔が撤去されていたことが古写真から推察されており、したがって復元図のような姿をしていた期間はほんの数年間でした。 禁教解除後、信徒の増加によって教会の増改築が計画され、1879年に大規模な工事が行われました。 この時の工事では、平面比較図の通り、創建当時から柱などの位置を変更することなく、身廊部を維持したまま全方位に拡張する増改築でした。 この時から現在に至るまでは、変化したところはほとんどありません。 創建時とは異なる外観を持つ大浦天主堂ですが、聖堂の中心となる空間からは、わずかながら当時の様子を感じることができます。 その他の改築や現在までの経緯については「大浦天主堂の歴史 パリ外国宣教会に入会後、1855年に琉球王国に到着し、日本語を習得しながら日本への入国の機会を待ちますが、40歳に近いフューレ神父は語学習得に苦労をしたそうです。 日本入国は1862年、横浜を経て、長崎への赴任は1863年1月のことでした。 創建時大浦天主堂の設計は、フューレ神父とプティジャン神父とされており、疑うところではありませんが、フューレ神父の長崎赴任が半年ほど早かったこと、また数学を得意としたフューレ神父が設計部分の多くを請け負った可能性は否定できません。 大浦天主堂の着工後、フューレ神父は一時帰国を願い出て、1年間の休暇を取得しました。琉球王国での10年という長い足止めと、開国間もない日本国内での宣教の困難さなどから、心労が重なっていたことが理由だったようです。1866年に再度長崎に赴任しますが、宣教が思うように実を結ばないことなどから、1869年にフランスに戻り、その後パリ外国宣教会を退会しました。 帰国後は教区司祭として、いくつかの小教区で奉職した後、1900年に帰天しました。 長崎では、信徒発見の瞬間に立ち会えず、宣教への困難に失意を覚え、帰国して宣教会を退会してしまったフューレ神父ですが、長い琉球王国での滞在中には工芸品の収集活動などを行っていたそうです。工芸収集品の送り先は、かつて教壇に立ったスタニラス神学校や、教会建設事業などへの寄附者宛てだったと言われ、異国の工芸品を送ることで、日本への関心を持ってもらうきっかけになると考えてのことだったようです。 また、得意分野である物理科学だけでなく、植物や鉱物にも関心が高かったことから、琉球王国での気象観測結果、植物などの記録やサンプルをとり、それらをフランスに報告をしていた記録が残っています。 長崎の聖堂が完成し、かねてより希望した『日本二十六聖殉教者教会』と名付け、海外宣教活動への熱意は失いながらも、自身にできることとして故郷の教区のための奉職を願い、それを続けたフューレ神父。 長崎の歴史、カトリック教会史において多大な貢献をした一人として、記憶に留めたい人物です。 2023.09.15
- 第1期 事業成果 事業の取組み *現在、コロナ感染拡大の影響を受け、第2期以降は一旦中止。再開は未定。 事業結果報告書 元喜載・杉山恵助・佐々木淑美(東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センター) 「《最後の審判》本格解体修理報告書 杉山恵助(東北芸術工科大学准教授) 「初期ド・ロ版画表装の独自性 内島美奈子(大浦天主堂キリシタン博物館研究課長・学芸員)・杉山恵助 「ド・ロ版画印刷年代考 島由季(大浦天主堂キリシタン博物館学芸員) 「キリシタンの死後の世界 修復記念展覧会 >> 修復記念講演会 >> 調査研究・修復 修復資料 R-d-32《最後の審判》 2023.09.11
- ド・ロ版画 [最後の審判] コレクション ド・ロ版画の5種類の教理図は、死にまつわるキリスト教の教えを視覚的に説明するものです。《最後の審判》では、イエス・キリストが世界の終わりに天から再び降り立ち、天国へ迎えられるべき人と地獄で永遠に苦しむ人とに振り分ける審判を行う様子を表しています。本資料は昭和初期にいちど修復が行われており、その古巣(本紙を取り除いた元々の表装)が残されています(図右)。 2020年から2021年にかけて2度目の修復が行われました。 2021.11.23
- ド・ロ版画 コレクション 当館では、19世紀以降に長崎の地で布教活動を行ったパリ外国宣教会に関する資料や、カトリック長崎教区の歴史に関わる資料を中心に収蔵しています。 その他、禁教下のキリシタン史に関する資料などもございます。幕末期に来日し、開国後のカトリック布教を担ったパリ外国宣教会の宣教師のひとり、ド・ロ神父が監修した大型の木版画。版木は1875~9年頃に大浦天主堂境内の神学校において制作されたと伝わっています。監修者はド・ロ神父ですが、日本人の絵師・彫師が手掛けたとされています。 キリスト教の教えをわかりやすく説明するための教理図が5種、教会などの祈りの空間を飾るための聖人図が5種、合計10種が制作されました。版木は10種全てを当館で収蔵しています。版画は当館において23点収蔵(ひとつの主題を複数所蔵)するほか、五島や天草地方(熊本県)、大刀洗町(福岡県)などに残されています。主題ごとの資料説明を順次公開予定です。 2021.11.23