フロアテーマ「詳覧展示 日本のキリスト教歴史学習室」

2. キリスト教の伝来と日本国内での受容と伝播

ザビエル神父上陸と伝播

1549年「イエズス会」の創設者の一人、フランシスコ・ザビエル神父がトルレス神父らとともに鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えました。翌年、ポルトガル船が平戸に入港すると、ザビエルも平戸に移り布教を始めました。さらに京都に赴き、天皇との謁見を希望しましたが断念し、山口や豊後を訪ねた後、1551年、中国での布教を志して日本を後にし、インドに戻ります。その翌年熱病に冒され帰天しました。
その後日本では、トルレス神父らの布教で西日本を中心に信者が増加し、1569年ルイス・フロイス神父は京都に織田信長を訪ねて布教を許され、日本各地に広まることになりました。京都や安土には、南蛮寺やセミナリヨ(小神学校)などが建てられ、福者高山右近など戦国大名が洗礼を受けました。

キリスト教の繁栄

戦国時代末期、多くの大名が南蛮貿易の利益を求めてポルトガル船の来航を望みました。そして、最もキリスト教が栄えたのは長崎です。
特に、日本初のキリシタン大名となる大村純忠はキリスト教に好意的で、1570年に長崎を南蛮貿易港として開港し「岬の教会」を建てました。また甥に当たる島原の有馬晴信もキリシタン大名となり、居城の「日野江城」にセミナリヨ(小神学校)やコレジオ(大神学校)を設置し、日本人宣教師等の育成を行いました。
セミナリヨ第1期生の伊藤マンショら4少年が「天正遣欧使節」として1582年に長崎を出発、1585年にローマ教皇に謁見し、日本でのキリスト教の繁栄をヨーロッパに知らしめました。
日本のキリスト教信者の数も、1570年頃の約2万6千人から、1592年頃には約21万7千人にまで増えたと言われています。

禁教(殉教)そして潜伏

「二十六聖人」のほかにも「元和の大殉教」「聖トマス西と15聖人」などの「殉教の道」を選んだ信徒の話があります。

「元和の大殉教」

日本人初の司祭であるイエズス会のセバスチャン・木村や、ドミニコ会・フランシスコ会の外国人宣教師、日本人信徒55名が西坂の丘で処刑されました。その中には80歳の老夫婦や女性小児も含まれていました。この大殉教の後、各藩のキリシタンに対する徹底的な弾圧が始まりました。

「聖トマス西と15聖人」

長崎で殉教したドミニコ会司祭や修道士、修道女と彼らを助けた信徒計16名の殉教者で、1987年に列聖されました。日本人司祭聖トマス西を含め、スペイン・イタリア・フランス人司祭の他、長崎のマグダレナ修道女や、フィリピン人信徒ロレンソ・ルイスらが含まれています。中町教会に記念碑が設置されています。

3.長崎におけるキリスト教の受容と発展

日本の小ローマ

長崎への布教は1567年にアルメイダ修道士によって始められました。当初1500人を超える信者がいたとされますが、その後南蛮貿易港となった後には信者の数も増加し、長崎・大村・島原地域で14万人以上に推移し、県内各地にキリスト教の教えが広まり、キリスト教文化が花開いていきました。
「岬の教会」が手狭となったことから、1601年、その跡地に日本最大の教会「被昇天のサンタ・マリア教会」が建設されました。教会や病院、福祉施設が建ち並び、港近くには6町が造成されました。また、住民の多くは信者となり、全国からの商人が集まり賑わいました。
徳川時代の初期には、10を超える教会や病院が建ち並び「長崎は日本の小ローマ」と言われるほどの賑わいを見せました。