この復元図は、古写真やスケッチ、わずかな記録から作成した、創建時の大浦天主堂(日本二十六聖殉教者聖堂:L’Eglise des Vingt-six Martyrs Japonais)です。
創建時の大浦天主堂の床面積は、現存する聖堂に比べ、半分ほどでした。
基本設計者はフューレ神父とプティジャン神父で、設計を元に建設を請け負ったのは、日本人棟梁・大工たちでした。その経緯は「大浦天主堂の歴史」で触れたとおりです。
塔頂に十字架が立てられた大小3基の塔が聳え、尖塔アーチ形と呼ばれる洋風の窓、内部にはリブ・ヴォールト天井が採用されていました。
ヴォールトというのはヨーロッパ教会建築の基本構造の一つですが、そもそもヨーロッパで構造体に用いられるのは石材でした。
その当時の日本には、洋風建築物に関する技術や知識はまだ伝わっていなかったため、大浦天主堂はわが国における教会建築史上初の施工例であると考えられます。
1868年頃までに2基の小尖塔が撤去されていたことが古写真から推察されており、したがって復元図のような姿をしていた期間はほんの数年間でした。

禁教解除後、信徒の増加によって教会の増改築が計画され、1879年に大規模な工事が行われました。
この時の工事では、平面比較図の通り、創建当時から柱などの位置を変更することなく、身廊部を維持したまま全方位に拡張する増改築でした。
この時から現在に至るまでは、変化したところはほとんどありません。
創建時とは異なる外観を持つ大浦天主堂ですが、聖堂の中心となる空間からは、わずかながら当時の様子を感じることができます。

その他の改築や現在までの経緯については「大浦天主堂の歴史」をご覧ください。

フューレ神父はパリ外国宣教会に入会後、1855年に琉球王国に到着し、日本語を習得しながら日本への入国の機会を待ちますが、40歳に近いフューレ神父は語学習得に苦労をしたそうです。
日本入国は1862年、横浜を経て、長崎への赴任は1863年1月のことでした。

創建時大浦天主堂の設計は、フューレ神父とプティジャン神父とされており、疑うところではありませんが、フューレ神父の長崎赴任が半年ほど早かったこと、また数学を得意としたフューレ神父が設計部分の多くを請け負った可能性は否定できません。
大浦天主堂の着工後、フューレ神父は一時帰国を願い出て、1年間の休暇を取得しました。琉球王国での10年という長い足止めと、開国間もない日本国内での宣教の困難さなどから、心労が重なっていたことが理由だったようです。1866年に再度長崎に赴任しますが、宣教が思うように実を結ばないことなどから、1869年にフランスに戻り、その後パリ外国宣教会を退会しました。
帰国後は教区司祭として、いくつかの小教区で奉職した後、1900年に帰天しました。

長崎では、信徒発見の瞬間に立ち会えず、宣教への困難に失意を覚え、帰国して宣教会を退会してしまったフューレ神父ですが、長い琉球王国での滞在中には工芸品の収集活動などを行っていたそうです。工芸収集品の送り先は、かつて教壇に立ったスタニラス神学校や、教会建設事業などへの寄附者宛てだったと言われ、異国の工芸品を送ることで、日本への関心を持ってもらうきっかけになると考えてのことだったようです。
また、得意分野である物理科学だけでなく、植物や鉱物にも関心が高かったことから、琉球王国での気象観測結果、植物などの記録やサンプルをとり、それらをフランスに報告をしていた記録が残っています。
長崎の聖堂が完成し、かねてより希望した『日本二十六聖殉教者教会』と名付け、海外宣教活動への熱意は失いながらも、自身にできることとして故郷の教区のための奉職を願い、それを続けたフューレ神父。
長崎の歴史、カトリック教会史において多大な貢献をした一人として、記憶に留めたい人物です。