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日本二十六聖人の殉教地探索
コラム
大浦天主堂は、正式名称を『日本二十六聖殉教者聖堂』といいます。 私たちが普段呼称している『大浦天主堂』というのは、地域名である「大浦」と、創建当時の教会に用いられた「天主堂」を合わせた、いわば通称です。 カトリック教会では、教会を建て、祝別を受ける際に、教会の保護者を定める慣習があります。大浦天主堂は1597年2月5日に長崎・西坂で処刑された日本二十六聖人を保護者とし、『日本二十六聖殉教者聖堂』と名づけられました。 大浦天主堂が創建された当時、日本二十六聖人が殉教した場所の特定はできていませんでした。 来日後、しばらく横浜に滞在したフューレ神父は、1863年1月22日に長崎に来着しました。彼は、先に到着していたフランス領事のレオン・デュリー(Léon Dury:1822-1891)が、長崎奉行所より臨時領事館として与えられた寺院(本籠町大徳寺)を仮住まいとし、教会建設地を探すことから始めました。フューレ神父は外国人居留地に隣接する現在の土地を手に入れ、その整地をし、まずは司祭館の建設に着手します。 8月に入り、プティジャン神父が長崎に来着しました。フューレ神父は教会の図面と建設予定地をプティジャン神父に示し、これから建設する聖堂は、1862年にピウス9世によって列聖された、二十六人の殉教者たちに捧げられる教会であり『日本二十六聖殉教者教会』と命名する考えであることを告げました。 聖堂建設に心を向ける二人が残念に思うことは、殉教のあった場所に教会を建てることができないこと、そしてその「殉教の丘」の具体的な場所が判然としていないことでした。 禁教時代、徳川幕府によってキリシタンに関する痕跡はことごとく消され、その後は時間の流れと共に風化し、荒廃してしまっていたため、日本国内には手掛かりになるようなものがなかったのでした。 長崎に来着して以来、プティジャン神父は聖堂建設事業と並行して、海外の諸資料をもとに、熱心に殉教地探索を続けていました。 プティジャン神父は、1863年9月20日付のジラール教区長宛の書簡で、見当をつけた場所に関する報告をしています。プティジャン神父は自分が思う見当地と、フューレ神父の意見は食い違っていること、あるいは自分の意見が間違っているのかもしれないと記述しながらも、10月14日付けの同教区長宛の手紙では、26人の処刑地を確信したと書いています。 さらに、同年10月28日付のスルピス会の司祭宛の書簡にも殉教地について触れた記述があります。 プティジャン神父の記述を引用します。 この丘、1597年の聖殉教者の十字架刑と死去との舞台となり、後ではしばしば私等の兄弟の血に潤されたこの丘は、長崎市の北方に位しています。その側面と麓には、丘と市との間に、丘の東、南、西に向かって奉行役所(立山役所)、仏寺、墓地があります。同じ方向で、二十六本の十字架の建てられた台地のすぐ傍に、葦や竹を植えた堀の跡が見えます。丁度十字架を植えたであろう所に大根や芋や、三本の大きな杉樹があります。日本人は唯今この丘を「立山」と呼んでいます。尊敬すべき教区長様(註:横浜のジラール神父宛)、1863年10月14日プチジャン司教書簡集 前編(浦川和三郎訳) 然しシャルルヴォアとパジェスのおかげで、昨年の精霊降臨に列聖せられた聖殉教者(二十六聖殉教者)が十字架にかけられ、貴い御最期を遂げられし舞台となった丘の位置を、私は今月初旬ごろに確認しえたと信じています。十七世紀の切支丹等が聖山の名の下に尊敬し、彼らの大多数がその鮮血に潤したこの丘は、長崎市の北側に位置しています。今日の日本人には「立山」の名を以て知られているのです。どうぞ私が聖山を突きとめるのに助けとなったテキストを御目にかけるのを御許し下さい。尊敬すべき神父殿(註:スルピス会司祭宛)、長崎発1863年10月28日 プチジャン司教書簡集 前編(浦川和三郎訳) プティジャン神父が参考にした資料は、その当時ヨーロッパでよく読まれていたとされる、シャルルボア(Pierre François Xavier de Charlevoix 1682-1761)による「日本史(Histoire du Japon)」、及びパジェス(Léon Pagès 1814-1886)による「日本二十六聖人殉教史(HISTOIRE des vingt-six MARTYRS JAPONAIS)」の2冊だったようです。 また、探索のため「立山」周辺を歩き、付近の住民などにも質問して回ったという記録もあります。 新鐫 長崎之図 (キリシタン博物館蔵) 因みに、プティジャン神父が言う「立山」とは山の名ではなく、その付近一帯の地域名であり、プティジャン神父が指しているのは「茶臼山」あるいは「女風頭」と呼ばれる場所です。 これらの書簡で、プティジャン神父は殉教の丘を「立山(茶臼山)」とし、そう呼んでいますが、それについて、キリシタン史研究家であった浦川和三郎司教は、シャルルヴォアとパジェスに加え、クラッセ(Jean Crasset 1618-1692 )やフロイス(Luís Fróis 1532-1597)の記録をもとに、いくつかの指摘をしています。 1915年に出版された『日本に於ける公教会の復活 前篇』の中で、浦川和三郎司教は、殉教地は海岸のそばであること、一旦立てた26本の十字架を、当初処刑地とされていた場所から移されたこと、茶臼山に至る道は峻嶮で、その十字架の移動が(不可能ではないにしろ)並大抵ではないことを大きな理由とし、その他いくつかの考察を加え、次のような論考を示しました。 殉教地は茶臼山よりも下手であり、首塚(当時の一般処刑地)からそう距離がなく、大村街道の一方であり、海に突出している場所である。 この論考をもって、次第に殉教地特定に向かって動き始める一方、そこに至る前に第二次世界大戦に突入し、世の中の騒動と共に殉教地特定作業は中断してしまいます。 戦後になって、キリシタン史研究はさらに進み、様々な論証が出されました。 現在の西坂の丘が殉教地に認定されたのは、1947年7月21日です。これは、キリシタン史研究家・長崎県戦災復興委員会から構成される文化厚生専門委員による結論でした。 その後、この西坂の殉教地を公園化する計画が立てられ、1949年5月のザビエル渡来400年祭にあたり、殉教地を中心に一帯を整理し「西坂公園」となりました。 さらに26人の列聖から100年目にあたる1962年には、記念館及び記念聖堂(聖フィリッポ教会)、記念碑の建立が実現しました。 日本二十六聖人殉教地である西坂の丘には、1949年5月29日に聖フランシスコ・ザビエル渡来400年記念祭にさきがけ、27日に昭和天皇がご巡幸で訪れています。 また、1982年には聖ヨハネ・パウロ二世が、そして2019年11月には現教皇フランシスコと、二度にわたってローマ教皇が訪れた場所でもあります。 宗教的な巡礼地であるのみならず、歴史を知るうえでも重要な場所として、長崎をご訪問の際には大浦天主堂と合わせて足を運んでいただくことをおすすめします。 ※引用部の漢字・かな使いは読みやすいように一部変更しています。
2023.11.16
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